2020年10月14
青森県十和田市
田代平
(写真 日本陸軍青森第五連隊 雪中行軍遭難者墓地)
着陸。氷のようにコチコチに固まった手。その指に血流が一気に走りだす。「なんだこりゃ~ いてーぞ!」。縮こまった血管が押し広げられる痛み。それはこんなにも激しいモノなのか。例えるならば……。ポコチンの管に刺したパイプ。それをグイとぬくときの痛み(変な趣味ないからね! 不覚にも若いとき膝の手術で一度やられた)。それ以上のモノが3分ぐらいつづく。その間はたたただ歩き回り、ウナリながら痛みを散らす。女性じゃないのでこれ以上の例えはできない、スマン。
秋や冬。寒冷な条件で飛んでると、手足の指は寒さでうごかなくなる。気温と高度にもよるが20分ぐらい飛んでいると痛みがはじめる。気温が10度以下になったら警戒した方がいい。これを北海道人に話すと「俺たちはマイナスとか使わないからさ、お前さんの言ってるのはマイナス10度てことでいいんだな!」て突っ込まれる。マイナス10度以下じゃなくて、プラス10度以下の話をしてるよ。
足の指はこまめに動かすことで、まあまあ大丈夫。一方、手の指はかなりまずい。同じ指なのだが、パラグライダーの特性上、手は常に上にあげた万歳状態。血液が上がりずらい状況で飛んでいるのだ。指は痛みから痺れに変わり、そして動かなくなる。エンジンを調整するアクセルワークは左手でやってる。同じ高度を飛んでいる時にアクセルワークはない。そしていざ上昇というとき指が凍り付いていることに気づき、パワーオンならず……(焦)。慌てて両手でアクセルを引き込み、急上昇したこは何度もある。車で例えるならば、両足でアクセルを踏む感じ。自慢じゃないんだよ。こんなアホレタことがこの時期のフライトでは起きているんだな、これが……。この痛みは凍傷だということを知り、指の細胞が死に始めている状態であることも理解し、対策をしたよ。
これがフライト初期段階。その後、この痛みを制しないかぎり撮影活動の充実は図れないと決意。その後10をこえるグローブをテストしたがダメだった。知床の漁師がつかう手袋が一番効いたが、それでも寒さには追いつかなかった。最終的に電熱線を利用した電気グローブをもちいてこの時期は飛んでいる。最近はバッテリーの性能がよくなり、いろいろと選べるようにもなったね。
八甲田山にはいり10日目。雪中行軍遭難事件を意識するあまり、遭難と凍傷への対策に気が向いている。そして滞在が長くなるにつれ、この場所の敵は雪は言うまでもなく、真の脅威は風であることを理解した。歴史にタラ・レバは禁物だが、もし、この行軍が八甲田山の西回り(表八甲田)で行われていたら結果はずいぶんと違っていただろうと確信し始めている。暗い雨の田代平。そこから5キロも八甲田山にそって西へ移動すると超ピーカン。何度もこんな天気に遭遇し、嫌気がさすほどだ。地元の人はサラリと奥羽山脈の典型的な天気だという。「弘前は晴れてて、八戸は雨なんてよくあることよ」。
今日はベースより僅かな距離にある八甲田山雪中行軍遭難資料館に行き、その墓地もたずねた。哀悼の意を捧げ、120年前の日本、そして当時の日本人に思いをはせた。120年前というとポカンとしてしまうけれど、僕がうまれる70年ぐらい前のはなしだ。この時期の日本がどうであったかはブロックされ伝えられてない。残念で仕方ないし、当時を生きた語り部はすでに天に召されている。旅先でであう歴史の痕跡。その事実から少しでも日本人として事実と向きあっていきたいと思うのだ。
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